『銀河の涯からGood Bye 桃山邑と愉快な仲間たち』

B5判 並製 152頁
責任編集:千代次
装画:近藤道彦
装幀:近藤ちはる
編集協力:矢吹有鼓
発行:水族館劇場 2023年1月15日

■目次

◎パンフ出生の小さなヒ・ミ・ツ 千代次

◎地獄は一定すみかぞかしーー桃山邑におくる言葉
武田克彦/高山宏/鴻池朋子/岡本光博/風兄宇内/高井綾子/山崎香世/片岡一英/南海里/鈴木亜美/森田康史/森田郁子/天下太平/峯昇一郎/畑中一彦/高井正俊/道家篤夫/鬼海典子/伊達政保/PANTA/おおくぼけい/田原章雄/山崎哲/鹿野安司/吉田精子/内堀弘/木暮茂夫/阿木暦/赫十牙/翠羅臼/七ツ森左門/高野幸雄/山本紗由/藤井七星/片山裕司/秋浜立/椹木野衣/杉江ゆかり/高野多恵子/菅孝行/藤中悦子/小林直樹/伊藤太一/楠瀬咲琴/藤田直哉/小笠原寛行/臼井星絢/安田登/会田誠/サカトモコ/森和行/東野康弘/二見彰/二見祥子/長瀬千雅/毛利嘉孝/沼沢善一郎/津田三朗/松林彩/山田勝仁/安富朋子/田中哲/伊藤裕作/近藤道彦/村井良子/鈴木光/ツダマサコ/流山児祥/大島幹雄/津田まりも/千葉大二郎/安部将吾/日高良祐/石井理加/浪野千鳥/大塚聡/梅山いつき/岡室美奈子/中村聡泰/居原田遥/相澤虎之助/菅生衣里子/川上敦子/島田昭博/宮地美華子/庄司尚子/矢吹有鼓/近藤ちはる/淺野雅英/千代次

◎『モスラ』(さすらい姉妹/2021年)

◎『むすんでひらいて』(さすらい姉妹/2022年)

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異族の文化をつきぬける

「高江・辺野古連帯 オカヤドカリの会」の機関紙、通信2号に発表した文章です。

翠羅臼さん、桜井大造さんらが発起人で高江や辺野古のドキュメンタリー映画上映、板橋文夫さんや不破大輔さんのミニコンサートなどを開催しました。わずか数年の活動でしたが、水族館劇場はじめ、芝居者たちが大勢合流しました。2019のさすらい姉妹「陸奥の運玉義留」はそんな中から生まれた琉球幻視行でした。ほんとに少部数発行でしたので、お目にとめた方も少ないと考え、ここに再録します。


異族の文化をつきぬける  桃山邑

 過酷な沖縄戦の一年後、折口信夫は音楽や舞踊、藝能の担い手たちが壊滅的に戦死してしまったことに痛恨の苦しみをこめた「沖縄を憶ふ」を発表する。その短文の結びには「あゝ蛇皮線の絲の途絶え—。そのように思ひがけなく、ぷっつりと—とぎれたやまと(やまとのうえに・・・と黒点のルビ)・沖縄の民族の縁(ルビ・えにし)の絲!—」とある。高名な古代を愛する文学者は強い思いで沖縄びとを血のつながった兄弟であると断言した。日本のふるい生活様式の祖型はこの南の島にこそ残っていると。敗戦によってアメリカの支配下におかれることを承知の上で書かれた嘆き。そこにこめられた複雑な感情をうけとめるのは琉球を独立した国家であると思っているぼくにとってもさほど困難ではない。藝能とは血や出自を異するまぼろしの共和国をながれてゆくことだから。

 翠羅臼さんから「辺野古・高江連帯オカヤドカリの会」の呼びかけ人にくわわってほしいと連絡があったときに、沖縄で反米軍基地闘争をになうひとびとに強い連帯の想像力があったわけではない。人間関係による直感がはたらいたといったほうが正しい。今年は正月元旦からもうひとりの曲馬舘時代の先輩である桜井大造さんと何年ぶりかで会い、ぼくや千代次はいっぽんの川からわかれていった支流がふたたび合流していくような予感にとらわれたのだった。この会の中心である反町鬼郎さんや、えまくにえさんとも旧知のあいだがら。たとえ集団をたがえ商売敵のような関係であったとしても底流に野外天幕芝居を継起しつづけてきた同志意識のような感情が流れていたのだろう。とおい昔ぼくは曲馬舘から芝居のけもの道にわけいり、たくさんの仲間とであい、協働し、同じ数だけ裏切りや離反をくりかえし現在の水族館劇場にいたっているが、いちばん最初の集団でたたきこまれた芝居者としての根柢を忘れたつもりはない。時代や季節はうつろいゆくけれど地上に圧倒的な非対称はますますひろがり、ロベール・カステルのいう「この世に用なき者」が大量にうみだされてゆく現実のなかで一座の夜会を張るということの意味まで漂白されたわけでもない。ぼくはこのところ、じぶんをごろつきと呼び、国家以前に成立した藝能のかたちを追い求めてきた。直截な言葉こそ使わなくなったが、ぼくの芝居にとって国家は永遠の敵である。政治的であることと文化的であることは相反することなのか。イデオロギーで合致しない一点だけで協働が不能になるほど現在の世界アトラスはシンプルに色分けできるとも思えない。幾重にもおりたたまれたひとびとの無念をときはなつ契機をやどす宴をぼくは藝能という言葉にたくしているが、曲馬舘もまたみずからの集団名に「娯楽の殿堂」と荊棘の冠をいだいていたのを思いだす。そこには底辺にむかってきりもみしながら芝居のけもの道を深化させようとする意思があった。

 昨年、サーカス研究(ご本人は興行師と呼ばれるほうが性にあってるとおっしゃってたが)の大島幹雄さんと楽しい対談をしたときに木下サーカスにかつてあった足芸「葛の葉子別れ」がもつ見世物としての艶やかさや、革命と密接につながってゆくメイエルホリドのスペクタクル演劇など、話題が縦横にひろがっていった。そのなかでふたりが共通してこだわっている裏テーマを北方志向ではないかとぼくが直言したときに、宮城県うまれの大島さんは即座にうなづき、じぶんはそれに敗走というイメージを重ねると返答した。大島さんが観てくれた芝居は、津軽から糧をもとめて北海道にたどり着き、サハリンを経て韃靼海峡をわたり、赤軍パルチザンせまるニコラエフスクへと流された少女の物語。銃火のなかブーメランのように網走にもどるしかなかった貧しいひとびとの群れ。連続射殺魔として国家に処刑された永山則夫と姉と母のクロニクルだった。そこから話題は敗者の想像力という領域にはいっていったのだが、翠さんや桜井さんも北海道でそだっており彼らが牽引していた相当はげしい集団の流儀に耐えられたのも、じぶんなりに身体感覚としてしみついていた北方志向だと確信している。ぼくが参画した唯一にして最後の芝居もまた昭和天皇爆砕をもくろんだ、現実の虹作戦をあつかった過激なものだった。アイヌモシリで民族差別をかんがえてきた東アジア反日武装戦線・狼部隊の大道寺将司さんと翠さんたちが同世代であり、同じ場所にいたというのは偶然ではない。

 だがいっぽう、この世はたくさんの偶然でもなりたっている。ぼくは建築もまた藝能であるとかんがえ、芝居者と建築職人とを自由に往還してきた。かつて寝食した飯場は津軽から出稼ぎにきたひとびとで占有され、数十年経ったいま建設現場でであう仕事仲間は圧倒的にウチナンチュが多い。都市下層労働の構造は高度経済成長以後、バブル崩壊を経て確実に変容してきた。投入される使い捨ての若い労働力は貧しい地域から吸い上げられる。バブル期のフィリピン、現在のベトナム、中国などアジアの辺境はすべからく供給地にされてきた。ブローカーがおくりこむのは合法か非合法かを問わず、つねに富の分け前にあずかれない側の人間たちだ。ぼくの住居である横浜鶴見には沖縄系南米人がたくさん居住している。かれらは近代明治が移民政策で南米におくりこんだ棄民の三世たちだ。故郷の島から移り住んだ血縁が形成する仲通りという大きな沖縄ストリートをよすがに生き抜くために戻ってきたのはまちがいない。かれらやぼくが住んでいる街はかわむこうと呼ばれる京浜重工業ベルトの埋め立て地。この鶴見川にかつて在日韓国・朝鮮人のバラックが簇生し、津軽から集団就職してひとりぽっちになった永山則夫が働いていた場所だ。信じられる祖国などないと明言する金の卵が密航をくわだて監禁されたままみつめた沖縄の海。『無知の涙』に認められた沖縄への共鳴までぼくは描写しきれなかった。

 そんななかでの辺野古・高江に目をむけないかというお誘いだった。台本書きとしてのいろいろなファンタスムスが大きな円環の輪をたどったような気がした。この幻想は目くらましのようにぼくをとらえて離さない。十代のころ衝撃をうけた、NDUのドキュメンタリー『沖縄エロス外伝』のなまなましい映像がフラッシュバックする。復帰前の歓楽街。Aサイン酒場にうごめく娼婦やヤクザたちモトシンカカランヌーの不穏な気分。そこには三星天洋の旗のもと、米軍基地襲撃の潜勢力が滲みだしていた記憶がある。マルコムX、チェ・ゲバラ、LKJ。革命は銃口からしかうまれないとするかつての暴力論と世界の更新への希求は無縁ではなく、燃えさかる炎や荒々しい身体を舞台に登場させてきた芝居者たちのみた夢魔の縁へもつながっていたはずだ。それは忘れたほうがいい無何有の理想郷にすぎなかったのだろうか。グローバル化を推進する強大な権力がふりおろす鉈は、いつでもちいさな弱いものの頭上に踊り、怒りは煮詰められて蒸発させられてしまうのだろうか。インターネット社会というあたらしい現実モデルに対応するメキシコ・サパティスタ民族解放軍のような非暴力への想像力こそが、この国で涵養されていかなければならない課題に思える。そこに至る遠い道のりの理路にぼくたち水族館劇場のめざす藝能の一座建立がどのようにからんでいけるのだろうか。政治的な絶望が深ければ深いほどみはてぬ夢にまどろみつづける芝居者でありたいと考えている。同時にぼくは経済支配のからくりが集中しその矛盾を背負わされた日雇い労働者でありつづける。シンボリック・アナリストと経済学者は名付けた格差社会の上部階層に対し、日々の暮らしさえままならないほど追いつめられたルーティン肉体労働者はそれでも仕事に手を抜くことはない。笑いながらこの世の不平等を憂い、イデオロギーで他者を腑分けするのではなく、3Kと忌避される労働に流した汗を共有する仲間とクールにつながるアンチナルシスの世界認識を獲得する。そこにみえるのは稼ぎをどれほど削られようと絶対にひるまない誇りである。その矜恃こそとおい昔から受け継がれてきた藝能者の血流なのだと信じている。

 芝居者は夢みるだけでなく、どんなに貧しくともじぶんたちのヘテロトピアを構築してきた。都市下層のふきだまりに。海やまのあわいのなにもない野原に。じぶんたちの歩いてきた道のりや思いを、じぶんたちとは異なるひとびとのこころのどこかに留めておいてもらうことを願いながら。

鬼海弘雄「人間の海」に寄せて

2017年の「盜賊たちのるなぱあく」で鬼海さんとの縁をつないでくれた長瀬千雅の文章を掲載いたします。


鬼海弘雄「人間の海」に寄せて   長瀬千雅

 なにがどうなって「盜賊たちのるなぱあく」で写真展「鬼海弘雄『人間の海』」を開くことになったのか、もうあんまり覚えていない。桃山さんは、長瀬があいだをつないだと言ってくれるけど、私がおつなぎする前から、鬼海さんと桃山さんは知り合いだったんじゃないかという気すらする。それぐらい、横浜・寿町にひるがえる鬼海さんの写真は、水族館劇場の芝居と共鳴し、拮抗していた。

 水族館劇場の野外舞台に初めて鬼海さんの写真が展示されたのは、2017年の夏だ。水族館劇場は「ヨコハマトリエンナーレ2017」に参加した。寿町の一角が、公共施設の建て替え工事のあいまのひと夏明け渡され、芝居小屋、古書店街、空中回廊、野外スクリーンなどからなる「巨大廢園」が出現した。それが「盜賊たちのるなぱあく」である。

 その前年、桃山さんから構想を聞いたとき、ものすごく高揚したことを覚えている(劇団員でもないのに無責任にごめんなさい)。

 桃山さんと鬼海さんの初対面の場に私は同席していないのだけど、二人は意気投合したようで、鬼海さんが「るなぱあく」に参加してくれることになった。

 鬼海さんの写真は、写真集『東京ポートレイト』から35点を鬼海さんが自ら選び、100×100センチ大のパネルにして、空中回廊の側面に設置した(そのパネルが、今みなさんがご覧になっているものだ)。雨風にさらされる屋外展示だ。キュレーターだったら、鬼海さんの写真をのざらしにするなんてと躊躇したかもしれないが、私はど素人なので、屋外めっちゃいいじゃんと思って、パネル制作を進めていった。この原稿を書きながら当時のメールを検索してみたら、鬼海さんもうれしそうだった。パネル制作を請け負ってくれた写真弘社さんが、雨風と日光に強い紙を提案してくれた。「人間の海」というタイトルは、鬼海さんがつけた。

 鬼海さんとは、以前、週刊誌「AERA」で働いていたときにご縁があった。

 私は就職活動を早々にドロップアウトして、花卉市場でバイトしたり派遣で働いたりしているうちに、なぜか「AERA」編集部にもぐりこんだ。仕事は「現代の肖像」という人物ルポの編集だった。担当したのは2007年から2012年1月まで。雑誌ジャーナリズムやノンフィクションの一線級の書き手がごりごり書いてくださっていた。

 あるとき、ノンフィクション作家の山岡淳一郎さんが、鬼海さんを編集部に紹介してくださった。「鬼海さんが仕事したいって」みたいなことを言われて、写真デスクにつないだんじゃなかったかと思う。デスクは最初、ちょっと疑っていたと思う。「あの鬼海さんが? ほんとに撮ってくれるの?」と。「現代の肖像」は写真にも力を入れていたし、いろんな写真家に依頼していたけれど、鬼海さんはマエストロすぎて、「鬼海さんに撮影を依頼する」という発想がなかった。

 鬼海さんとのいちばんの思い出は、東日本大震災のあと、「現代の肖像」で南相馬市長(当時)の桜井勝延さんを取材することになり、山岡さん鬼海さんと3人で一泊の取材旅行に行ったことだ。

 ここで気の利いたエピソードの一つも披露できるとよいのだが、そんな話は全くない。車中が楽しかった感触はあるのだが、何をしゃべったか思い出せない。覚えていることといえば、安全運転を唱えながらレンタカーのハンドルを握っていたこと、酪農家さんを訪ねたときの、車を降りた瞬間の砂利の感じ。牛舎。市役所の張り紙。晩ごはんどうしようかな、明日の朝何時集合って伝えればいいかなと考えていたこと。雑誌のヒラ担当なんてそんなものだ。ただ、写真ページのゲラが出たときに、通常は縦長の長方形でレイアウトされる写真が正方形だったのを見て、「鬼海さんの写真だ」と思ったのを覚えている。鬼海さん以外に正方形が許されたのは見たことがないから、あれはある種の特別待遇だったと思う。写真そのものもとてもよかった。だけど、雑誌のフォーマットはいかにも狭苦しくて、以前にどこかの美術館で見た、白い壁にどーんと展示された鬼海さんの「肖像」写真の迫力とは比ぶべくもなかった。それから半年後に、私は「現代の肖像」の担当をやめてしまった。

「盜賊たちのるなぱあく」には、「港のバーバー」という、無料の床屋さんが店を出していた。福岡市で美容院を経営する渡邊友一郎さんが、桃山さんの呼びかけに応えて参加されたものだ。私はこの「港のバーバー」というアイデアが大好きだった。

 実は当初、鬼海さんに参加してもらいたいけど、まだ何をするかは決まっていなかったとき、一瞬だけ「写真館」をやってもらえないかというアイデアがあった。「るなぱあく」には寿町の人たちも出入りするから、おっちゃんたちを撮ってもらうのはどうかと思ったのだ。「港のバーバー」から連想した部分もあったと思う。そのアイデアは鬼海さんに却下された。鬼海さんにとって写真を撮るとは、そういうことじゃないんだと。別に気を悪くされたわけではないし、それは私もわかっている。ただ、「やっぱり私は、鬼海さんの写真をちゃんとはわかっていなかったんだな」と思った。

 今でも、「鬼海さんが何を撮らなかったか」に思いを馳せる。カメラを持った鬼海さんは、何を待っていたのか。何と出会いたかったのか。私が浅草寺の境内を歩いていても、鬼海さんは声をかけない。声をかけられたいわけではないけれど、死ぬまでに自分なりに、自分の「王国」を築けるように生きていきたいと思ったりする。

 いつだったか、鬼海さんが亡くなったあと、桃山さんと電話で話したときに、桃山さんがぼそっと、鬼海さんが俺を撮りたいって言ってくれたんだよね、と言うのを聞いた。正確な文言じゃないかもしれないけど、そういう内容だったと思う。言っても詮ないことだけど、鬼海さんが撮った桃山さんが見たかった。かなわないと思うと悔しい。だけど、その半面、桃山さんは水族館劇場という、桃山さんにとっての「人間の海」を今も泳いでいるわけだから、実現しなくてよかったのかもしれないとも思う。

こんな音楽で舞台をいろどってきた

昨年、流浪堂で開催された「アントロポセンの空舟」関連企画パンフレットです。桃山は芝居とは違った風景を音楽に見ていたのかも知れません。


こんな音楽で舞台をいろどってきた  桃山邑

 今日は、ぼくが子供の頃から聴いてきたいろんな音楽についてざっくばらんに話そうと思う。収録した動画でも触れているように、少年の頃、本のつぎに好きになった「表現」は音楽だった。田舎育ちでなにもない町だったけれど自転車を30分ほど走らせれば隣町に行けた。そこにはレコード店が2軒あったのだ。どちらかというとひとり遊びが好きだったぼくに母がポータブルプレーヤーを買ってくれた。LP 盤を乗せると本体からはみだしてしまうくらい粗末な玩具にすぎなかった。当時、歌謡曲はシングルが主流で、それなら小学生にもお年玉で買えた。戦後の高度経済成長はピークに達しつつあり、安価な労働力として、地方の農家から金の卵や季節の出稼ぎが都市に流れ込んできた時代。艶歌と呼ばれる、故郷喪失者が都会の裏路地で実を結ばぬ性愛をつぶやく、といった敗者の嘆き唄が主流だった。青江三奈や森進一といった、どこか陰のあるスターたちに、たぶんうまくいかないであろう自分の将来を投影していたのかもしれない。意味もよくわからず夢中になった世界は、成長して都会に出てきてから痺れたサザンソウルに似ていた。いまならそれがコブシと呼ばれる大衆音楽独特の歌唱法であると指摘できる。でも子供のぼくは都会のネオンサインにあこがれていただけかもしれない。

 やがて思春期をむかえると、既成の枠組みの中で大量生産される音楽とは別の価値規準を持った、シンガーソングライターやビートルズの登場以降、堰をきったように登場してきたロックの世界観に影響をうけてゆく。なかでもラテン音楽の評論家だった中村とうようが創刊したNMM(ニューミュージックマガジン)を毎月こころ待ちするようになる。編集長みずからがフレッシュな若者の音楽を積極的に擁護し、同時にポピュラーミュージックの歴史をひろめていこうというこころざしが紙面から溢れていた。当時NMMのメインは発売されるレコードをジャンルを問わずに点数で評価する「今月のレコード」というコーナーだった。情報がほとんどなかった時代、数ヶ月に一枚程度のLP盤しか購入できなかった田舎の貧乏少年にとっては大変ありがたい羅針盤だった。ぼくは好きだったジャンルよりも評価の高いレコードを聴き漁るようになってゆく。そうやってブルースと出会い、米国の黒人音楽の源流をさかのぼるようにアフリカのポピュラーミュージックに魅かれていった。

 同時に日本の伝統的な民俗音楽にも興味を持つようになる。小沢昭一や五木寛之、松永伍一、竹中労といったひとたちが忘れ去られようとしている過去を拾い集めるために全国を旅して歩いた。そうして貴重なドキュメントレコードとして残されたものに耳をかたむけてゆく。これらは総じて藝能と呼ばれる民衆の声であり、こんな音楽を渉猟してきた積み重ねが現在の芝居者としての原基をつくっているような気もする。この時期ぼくはまだ芝居の世界と出会っていない。音楽だけを夢中で聴いて、その栄養素を身体に取りこんでいたのだろう。

 鄙を棄て、都会にでてきたぼくは紆余曲折を経て曲馬舘という旅芝居の集団に合流する。劇団と呼ばないのは、それが所属した役者たちの共通認識だったからだ。翠羅臼が創設したこの役者徒党は急進的な政治テーマとスペクタクル(その名のとおり本物の馬を使う)で人気があったアングラ第三世代だけれど、様々な音楽家たちも出入りしていた。ぼくとは入れ違いだがメジャーデビュー前の坂本龍一も食客だったらしい。彼は一曲だけ曲馬舘のために作曲している。「愚者の謝肉祭」という芝居のテーマ曲だ。いまとなっては彼自身のバイオグラフィーから消し去りたいのか、この時代のことは話題にしない。翠羅臼は後に不破大輔と渋さ知らズと何度も仕事し、Pファンクのような素晴らしいカオス的センスを発揮するが当時はあまり音楽に強い興味を持っていなかったように思う。一度、音楽遍歴をたずねたら学生時代はそれどころではなかった(運動で忙しかったということだと思う)と答えてもらった記憶がある。芝居のラストで流れるピンクフロイドだけはやめてくれ、と懇願した覚えがある。ぼくは芝居よりも音楽だった。

 曲馬舘に入団はしたけれど最初の旅が最後になった。二十歳をかぞえたばかりのぼくには新鮮な体験だったが旅芝居を長年続けてきた中心メンバーは長い総括期間に疲れ切っていた。再出発の精神的支柱ということでは誰よりも桜井大造に責任が集中していった。台本演出いがいの、ほとんどすべての作業が当時まだ三十前だった彼の肩にのしかかっていた。旅の後、残ったメンバーは、ふたたび捲土重来を期したが、余力は残っていなかった。最先端の音楽の世界は商業ロックを否定したパンクムーブメントからニューウェーブの時代へと移行していた。今回ご紹介するリザードの「さかな」という曲はその頃発表された。朧げながら今でも記憶に残っている。韓国の光州蜂起に呼応するように、ぼくたちも所属していた京大・西部講堂連絡協議会は、大晦日に「市街戦の気分で」というオールナイトコンサートを企画する。紅白歌合戦のステージからヘリコプターで京都に舞い降りたダウンタウン・ファイティング・ブギウギバンド(宇崎竜童も発売禁止になるような音盤を自主制作していた)を迎えにいったり裏方の役目を担っていたが、楽屋で一息ついていたらステージから音楽が途絶え会場が騒然とし始めた。リザードのリーダー・モモヨが観客のこころない野次にキレて突然演奏を中断したのだ。スタッフの説得でライブを再開したモモヨは「さかな」を歌ってステージを降りる。一聴瞭然、水俣病をテーマにした楽曲だ。その年、曲馬舘は水俣公演をたくらみ制作がうまくいかず断念。制作を担当した中原蒼二は後年、水族館劇場に関わるようになっても当時、地元で受け入れに奔走したひとたちと連絡をとっていた。毎年送られてくる甘夏をマーマレードにしておすそ分けしてくれた。その中原も今は海に睡っている。懐かしいおもいでに浸ってばかりもいられない。この春の野戰攻城は加速する資本主義社会への最初の警告ともいえる水俣の世界をとりあげる。たび重なる引っ越しで紛失したと思っていたリザードのEP盤がみつかった。ぜひ聞いてください。

 曲馬舘が解散したあと、ぼくは同世代の仲間たちと驪團という旅芝居集団を結成する。はやり立つ気持ちをぶつけた旗揚げ公演は「越境天使」劇中で流れる音楽はほとんど全てがレゲエ。レベルミュージックとして登場したボブマーリーが世界的スターになっていたが、最も気になったのは台頭してきたネオナチの潮流に対抗したロック・アゲインスト・レイシズムの中軸、ダブポエット・リントンクウェシジョンソン、ミスティインルーツやスティールパルス、マージャー、アスワドといったUKレゲエバンドたちだ。とりわけ、オフステージへのテロに対抗するため覆面をしながらステージにあがっていたというミスティの硬質なサウンドと危険な匂いにみちた歌詞は大好きで、水族館になってからも客寄せで流したりした。
ヨーロッパの情況から比べれば生ぬるいとしかいいようがない日本にあって、寄せ場(日雇労働者の住居する町)で起こった解放運動はどんどんエスカレートしていった。山谷での利権を奪われまいとした皇誠会・西戸組とリアルな政治闘争のなか、ドキュメンタリー映画を撮影中の佐藤満夫監督が刺され、後をひきついだ山谷争議団の実質的なリーダー山岡強一も大久保の路上でやくざの銃弾に射殺された。三多摩山谷の会という支援グループで活動していたぼくは、やまさん(山岡強一)の遺体を引き取りに新宿警察にいったりした。争議団と最も親しかった桜井大造の風の旅団を中心に翠羅臼の夢一簇、武田一度の犯罪友の会、那加精四朗の白髪小僧などの野外劇団が実力闘争に加担していった。一連の事件の前夜、驪團も公安警察による弾圧を経験していた。ポスターに昭和天皇の首が落とされる錦絵を配し、テロリスト難波大助を主人公に仕立てた「最暗黒の東京」公演だ。いちどは許可しておきながら公安主導による許可取り消しでぼくたちは排除された。機動隊に囲まれながら芝居を観に集まった客に謝罪するぼくたちに、法政大学学術委員会から救いの手がさしのべられた。リベンジ公演を市ケ谷キャンパスで実行しようという提案だった。右翼が襲撃してくるという、まことしやかな噂が流れ、竹槍を持った学生が天幕を防衛するというピリピリムードで幕は切って落とされた。主題歌を高校の旧友オートモッドのジュネに頼んだ。この芝居のラストに選んだのが、現在にいたるまでぼくが最も深く音楽的影響を受けつづけたアフロビートの創始者フェラクティの「カラクタショウ」である。戦いに赴くような煽り立てるリズムは学歴を持たない故、学生運動とも無縁だったぼくに束の間おとずれた政治の季節だったのかもしれない。

 驪團のメンバーとも不本意な形で別れたぼくは、いよいよ水族館劇場をたちあげる。それまで拒否してきた作演出という権力的立場を望んで全うしようと覚悟を決めた。大八車で筑豊炭鉱を巡演したのだが、ずっと耳の奥に響いていたメロディーがある。ヴァージンVSの「水晶になりたい」だ。稲垣足穂にインスパイアされたであろうこの楽曲は野戰攻城の前身である天幕芝居「亜細亜の戦慄六部作」の主旋律になってゆく。ふた月に及ぶ筑豊漂流から東京に戻ったぼくらは合流してくれた旧驪團のメンバーと雑司が谷鬼子母神に流れついた。12月の凍えるような夜、ブルーシートにくるまりながら公演のために境内に野営した日々が思いだされる。東京初お披露目といえる舞台に流れていたのはフェラクティとともに最も敬愛するミュージシャン、フランクザッパだ。名作と云われる「シークヤブーティ」のなかの2曲を選んだが、未見の方は是非「Does Humor Belong in Music?」をおすすめする。YOUTUBEにアップロードされているので無料でみられるが、できればザッパの深い洞察と切れ味バツグンの批評精神をことばたくみに翻訳した字幕版レーザーディスク「音楽にユーモアは必要か?」のほうが日本人には楽しめる。ぼくは水族館の初代音楽監督だった小野達也から字幕つきVHSをプレゼントされた。音楽や芝居が存在する希望のようなものを笑いとともに届けてくれる。

 こうやってスタートした野戰攻城は90年代末、廃館する亀有名画座を借り受け映画館を改造しながら「昭和雨月物語」を興行する。このとき映写室に泊まり込んでオリジナル楽曲を次から次へと作ってくれたのが驪團時代からの劇友マディ山﨑である。川崎の鳶をしながら高い演奏技術を持つギタリスト、マディには最も長いあいだテーマ音楽を担当してもらった。舞台の中で生演奏を披露した場面を覚えておいでの方もあるだろう。

 世紀が変わるとスペクタクルはいよいよ本格化していった。短期間の公演で、行き詰まっていた水族館劇場は駒込大観音の助力もあって長期間公演を断行、観客動員を増やしてゆく。新旧の役者のちからみなぎる黄金時代だったかもしれない。団子坂を後にしてから出会った太子堂八幡神社、三重・芸濃町の東日寺、新宿花園神社、ヨコハマトリエンナーレ(横浜寿町)などの場所にもそれぞれの音楽が流れた。役者と同時にヴァイオリン奏者でもある山本紗由、美濃の陶芸作家・鈴木都、シンガーソングライター・東野康弘、博多の藤澤智英たちが舞台をオリジナル楽曲で彩ってくれた。2019野戰攻城「搖れる大地」では頭脳警察のPANTAが主題歌を引き受けてくれた。ぼくらは結成50周年を迎えるバンドのために仮設小屋を全面的に解放した。頭脳警察にとっても、超満員の聴衆にとってもおもいで深いコンサートになったと自負している。

 最後にメモリアルから未来の話をしよう。今年は水俣の世界と綯い交ぜに、東南アジアのからゆきさん、天草四郎と島原の乱をテーマに組み込むつもりだ。「サンダカン八番娼館」でも知られているように、明治の棄民政策は帝国主義の版図を南洋に展開してゆく。時代も異なるこれらの社会問題に共通するのは有明と不知火海域というトポスであり、故郷喪失という物語である。インドネシアは中村とうようが大好きだった大歌手、エルフィスカエシを生んだ国だが、戦後補償の問題で瀬島龍三(伊藤忠商事)が暗躍した政治的ブラックボックスの要衝地でもある。これらの因果がどう絡まりあって一箇の舞台となってゆくのか。劇中音楽のゆくえとともに、どうかお楽しみに待っていてほしい。春はもうそこまでやってきています。

※文中、人名の敬称を略しました。いまは移転した「流浪堂」は「古書ほうろう」とともに水族館劇場にとって強力な助っ人でした。

敵対と関係性の芝居の現場から現代美術をかんがえる

2021年12月4日(土)〜25日(日)にeitoeikoにて、岡本光博と千葉大二郎による展覧会「水族館劇場の向こうがわ」が開催されました。
水族館劇場の活動を現代美術の側面からとらえ、芸術と社会運動について考察し、岡本は劇団との関わりのある「モレシャン」と「ドザえもん」シリーズの立体作品を、千葉は「水族館劇画」シリーズを発表しました。

eitoeiko「水族館劇場の向こうがわ」

photo: Daisaku OOZU


2021年師走、神楽坂eitoeikoでひらかれた「水族館劇場の向こうがわ」に寄稿した桃山の現代美術の原稿です。
2022年の野戰攻城のfish-boneにはこの論考を膨らませたものを掲載予定でしたが、ニコラ・ブリオーの邦訳がようやく出版されたり(うなずく点も多い)諸事情がからんで全く別のテーマになってしまいました。中途半端ではありますが、来場者しか眼に触れることがなかったので、ここに再録いたします。

※「水族館劇場の向こうがわ」図録はこの寄稿のほか、岡本光博「ドザえもん」枯山水バージョン写真と、千葉大二郎による水族館劇画のリソグラフ全16葉を収録。木戸にて販売いたします。

敵対と関係性の芝居の現場から現代美術をかんがえる

水族館劇場 桃山邑

1.いまから六年前。劇団分裂をともなうお家騒動の後、野戰攻城再生の前哨戦として、ぼくは「さすらい姉妹」の年末年始寄せ場巡演の台本を書いていた。「ぢべたすれすればったもん」のタイトルを持つその芝居は当時の役者たちの、不安と矜恃が綯い交ぜになった心境を、そのまま反映させようと試みた背水の舞台だった。偽物であることに居残り、模倣を突き抜けることにあたらしい可能性をみはるかすブツを現代美術に発見し、物語に組み入れようと折角した。ルイ・ヴィトンからの抗議を受けて美術館から撤去された岡本光博の「バッタもん」だ。その作品のバッタもんを登場させるアクロバット。本物の偽物の偽物だから著作権など派生するはずもないだろうと気楽に構えていたのだが演出の毛利嘉孝から連絡すべきと諌められ、美術家に快諾して貰った縁が、二年後のヨコハマトリエンナーレでの巨大作品「DADAモレ」と寿町の子どもたちが喜んだ「ドザえもん」展示につながった。そのとき美術家の御就きとしておっとり刀であらわれたのがeitoeikoのオーナー、癸生川栄である。役者徒党らしい水族館劇場の勾引かし術に乗ってくれ、以降、ご子息ともども、役者として舞台を踏んでくれた。トリエンナーレは美術展だったので(なぜ水族館に白羽の矢がたったかは謎だが)ぼくは当時、アートフェスティバルという名目で展開されていた、グローバル資本主義と背中合わせの地域振興批判を明確にしていた藤田直哉(前衛のゾンビたち)を呼び、リクリット・ティラヴァニャのパロディにしか思えない会田誠の芸術公民館(寿町の展示会場に厳禁の酒を持ち込み、日雇いの街の酔いどれたちたちと呑みかわしながら、だらだらとお喋りする)を芝居と並行して開催した。アウトオブトリエンナーレと名付けられたイベントは当時ぼくたちのやんちゃな振舞いを見守ってくれた横浜美術館長(現新国立美術館長)逢坂恵理子の期待に応えたはずと自負している。「やっちゃ駄目という約束(打上花火、酒持込み、火吹き、芝居後の宴会)を全部実現された」と館長は苦笑いしていたが、そのことで誰かに迷惑をかけたことは露ほどもないはずだ。云わば敵対性のはりつめた街(役者徒党が野天に準備を開始したとき、呑んだくれたちは糞尿のごみを投げつけた)に、ぼくたちはあなたがたと同じ側に立つ河原者であることをていねいに説明しながら、やわらかい卑近の美を持ち込み、それを野宿者たちも含めたベガーズバンケットに昇華できたとのではと考えている。

2.卑近の美とは何か。「私が初期肉筆浮世絵に心酔し出したのはいつの頃からであったか、七八年も前になろうかと思われる。無論最初は只漫然と岩佐又兵衛の筆としてそれ等を見ていたのであるが、私はそれ等の絵にある、へんに生々しい男女の顔、一種古拙でしかも深く現実感をとらえたミスチックな姿態、気味悪い程生きものの感じを持った、東洋人独特のぬるりとした顔の描写、そういう、所謂私のでろりとした美しさの味、それと同時に、私は又かなり前から、美術上の審美的境地に「事象」の美という一境のあることを覚って来ていた」ー初期肉筆浮世絵 岸田劉生

近代が胎動し、完成に向かっていた時代に生きた天才画家はセザンヌの影響下に出立し、次第に東洋的な美に傾倒してゆく。
歌舞伎や肉筆浮世絵を「でろり」という造語で捉え、又兵衛の、血みどろの記憶にささえられた美学を発見した劉生の眼の神殿に現出するものは、ぼくたちが藝能と呼ぶ放下の境地と驚くほど似通っている。西欧文化に尻尾をふってついていった明治近代が葬り去ろうとした前近代の美。「でろり」という、見事な語感が連想させるのは胆汁質の、毒性をおびた危険な美しさである。とおり一遍の理解を撥ねつけて深いまなざしを持つものだけが感じ取れる享楽。唐突な比喩だが、アメリカのブルースマン、ライトニン・ホプキンスのどす黒い佇まいに共通項を見いだした音楽評論家もいたことを思いだす。ぼくにとっては愛してやまないシンガー、0.V.ライトの、咽のなかでコブシをびちゃびちゃと噛み砕き、聴くものの耳にでろりとした味わいを届ける唱法を想起させる。さすらい姉妹は長いことこのサザンソウルの至宝の名曲「I’m Going Home」を客送りに流してきた。そして此処、eitoeikoで幕を切って落とす新作「のざらし姫」では豊国祭礼図屏風に描かれた桃山時代の名残りを宿す出雲の阿国をテーマに据えた。ご承知のように豊国祭礼図屏風はいくつも現存するが、豊国神社本、徳川美術館本の二点が近世風俗図の傑作として名高い。そのうち、徳川美術館に収蔵されたものは伝・岩佐又兵衛筆と称呼されているものだ。これらの断片的な事象を繋ぐ横糸は藝能というキイワードである。現代河原者を名乗るぼくは、芝居を〈演劇〉という小さな檻に閉じこめず、開かれた場=舞台と客席の境界をとり払った、相互のネットワークとして捉え、精神の賦活をもくろむ現象として観客にさしだしてきた。その点ではニコラ・ブリオーがとなえた〈関係性の美学〉と近いかもしれない。

3.ジャック・ランシエールはブリオーが評価した現代美術のあたらしい(もう既に四半世紀の刻が経っているが)方向性に否をとなえ、さらにクレア・ビショップが美術理論誌オクトーバーで関係性の美学を批判する。「ブリオーは、同時代の作品を前の世代から何とか引き離そうとしている。彼の考えているとおり、両者の主な違いは社会の変革に対する態度の移行にある。つまり、今日のアーティストが追い求めているのは、〈ユートピア的な〉アジェンダの代わりに、いまここにおける一時的な解決策を見つけだすことだけなのである。今日のアーティストは自分たちの環境を変革する代わりに、ただ〈よりよい仕方で世界に住まう方法を学んで〉いる。こうした芸術は、未来のユートピアを待ち望む代わりに、現在において機能するもろもろの〈ミクロトピア〉を作り上げる。ブリオーは、この新しい態度をひとつの文章によって鮮やかに要約している。〈より幸福な明日に賭けるより、現在の隣人たちとのありうべき関係性を発明することの方が、より急務であるように思われる〉このミクロトピア的な気風こそ、ブリオーが関係性の美学の中核をなす政治的な意義としてみとめるもの」とみなして反論する。エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフ『ポスト・マルクス主義と政治―根源的民主主義のために』を援用しながら、関係性の美学の政治性を批判的な照明のもとにひきずりだす。ここで問われる民主主義のための最初の概念は「敵対」である。他者の多様性を民主的に尊重するとは、あらゆる対立が解消された世界のことではなく、維持されつづけることではないかと論を結ぶ。敵対が存在しなければ権威によって強制された「合意」ばかりがまき散らされ、本来の民主的な社会と相容れない。このような脆弱な基盤のうえに立ち上げられた現実、とりわけ日本の地域アートフェスティバルに違和を感じるのは藤田や会田だけではないはずだ。岡本の作品もまたいたるところで物議をかもしだしてきた。だがその積み重ねこそ正常な事態ではないのか。問題を顕在化することで白日のもとに晒される欺瞞もあるからだ。リレーショナル・アートの、若い担い手たちが芸術(虚構)を政治(現実)にスライドさせたとき、思っても見ない事態(それこそ政治性)にまきこまれることを覚悟しなければ統治権力に吸収されるだけだろう。ぼくはそもそも芸術と政治の二項対立なんてかんがえていない。芸術が虚構で政治が現実とも断定しない。あらゆる事象は蚕食しあい、無限の宇宙にたゆとうている。強いて云うなら、政治こそ藝能(芸術という言葉はキライなので)に奉仕するのでなくては世情は豊かに穣りの秋《とき》を迎えることができない。Hassuism千葉大二郎の魅力は挑発性にある。ことによっては観るものを不快にさせ、意味をさがしあぐねる迷路が用意されている。でもそれこそが関係性の美学を越えてゆく芸術の出発点になるのではないか。かつて千葉は水族館の活動を劇団に擬態した百姓一揆であると喝破した。そのまなざしの向こうに来るべき未来の美を現出してほしい。

4.最後に今回の芝居と関連する問題にたちかえる。歴史学者の黒田日出男は前出の豊国祭礼図を読み解くうえで重要な指摘をしている。すなわち史料としての図像に残された痕跡をそのまま事実として認識するのではなく作者の虚構(この場合、岩佐又兵衛がどのような意図をもって祭礼図を再構成したのか、喧嘩をする跋折羅者の朱鞘に生き過ぎたりやの文字を写して何らかの意味を隠した)を見破らなければその絵を見たことにならないと。秘匿された暗喩がきわめて直裁に政治に絡んでくるからこそ作者は想いを「別の仕方」で表現した。虚実皮膜のあわいにこそ真実があると説いたのは「でろり」の美をさらに深めた後世の近松門左衛門である。この国でも四百年前から虚構と現実は血糊のごとく混じりあっていた。芝居現場の芸人からみえた現代美術の可能性をメモして残す所以である。

※文中個人名の敬称を略させていただきました。また、いろいろ生煮えな感が否めないのは承知のうえでこのエッセイを仕上げたので来年の春までに問題点を整理してあらためて同じテーマでかんがえたことを発表したいと思います。文中、明記したもの以外、参照したのは以下のとおりです。
『資本主義が終わるまで』 丹羽良徳 Art-Phil 『豊国祭礼図を読む』 黒田日出男 角川選書 
『開放された観客』 ジャック・ランシエール 法政大学出版局 
「ブリオー×ランシエール論争を読む」 星野太 コンテンポラリー・アート・セオリー所収 イオスアートブックス
「敵対と関係性の美学」クレア・ビショップ 表象05所収 月曜社


撮影:和田高広

eitoeiko
東京都新宿区矢来町32-2
www.eitoeiko.com

2022.4.9〜4.30 展覧会タイトル:桜を見る会
開廊時間:火~土 12時~19時
出展作家:一色ちか子、岡本光博、木村了子、坂本佳子、嶋田美子、中島りか

『朱もどろの海の彼方から──報告・琉球幻視行』

B5判 並製 100頁
装幀:近藤ちはる
編集:矢吹有鼓
発行:水族館劇場 2019年12月

■目次

桃山 邑 沖縄から世界へ。世界から沖縄へ。──移民、貧困、歴史。希望なき社会の希望
台本 陸奥の運玉義留(作演出 翠羅臼)
千代次 ボンヤリ沖縄行き
居原田 遥 冬のかんげーぐと
梅山いつき 来訪と放浪─さすらい姉妹の旅の夏
秋浜 立 沖縄報告(辺野古─高江─安部海岸─読谷村)──2016年暮れ
台本 海を越える蝶 GO! GO! チンボーラ~ 満月篇 弐の替わり(作演出 桃山邑)

■概要

水族館劇場は、「さすらい姉妹」興行として2019年「風車(かじまやー)の便り──戦場ぬ止み音楽祭2019」へ参加し、5月に東京上野で、七月には沖縄で『陸奥(みちのおく)の運玉義留(んたまぎるー)』(作演出 翠羅臼)を上演した。10月、沖縄というテーマを引き継いで、水族館劇場座長の桃山邑によって新たな台本「GO! GO! チンボーラ」が書かれ、東京世田谷の太子堂八幡神社で奉納芝居として上演された。
 本書は、二つの台本(★)を収録するとともに、沖縄公演から、沖縄をめぐる新たな芝居上演にいたる記録として編んだものである。
 
『陸奥の運玉義留』(作演出 翠羅臼)★
 「風車の便り──戦場ぬ止み音楽祭2019」参加
  東京 上野 水上音楽堂 5月31日
  沖縄 辺野古 キャンプシュワブゲート前テント 7月12日
     那覇 新都心公園 天幕渋さ 特設ステージ 7月13日
 「赤い森の彼方へ──沖縄のアンダーグラウンド」(水族館劇場主催)
  東京 新大久保EARTHDOM 7月5日
『GO! GO! チンボーラ~ 満月篇』(作演出 桃山邑)
  東京 三軒茶屋 太子堂八幡神社境内 例祭奉納芝居 10月13日
『海を越える蝶 GO! GO! チンボーラ~ 満月篇 弐の替わり』(作演出 桃山邑)★
  東京 新大久保EARTHDOM 12月13日

■ご案内
ショップページよりお買い求めいただけます。

『報告・凍りつく世界と対峙する藝能の在り処』

B5判 並製 108頁
監修:桃山邑
校正:原口勇希
デザイン・編集:近藤ちはる
発行:水族館劇場 2020年12月

■目次

はじめに
桃山邑 黙示録の時代に
菅孝行 <無頼の演劇>への応援歌
瓜生純子
「乾船渠 八號」ポスター
淺野雅英 続ける
宮地健太郎 いまあらためて
楠瀬咲琴 糸の重み
小林直樹 当事者性という炎
沼沢善一郎 芝居を観ているわけではない
鈴木亜美 私と「乾船渠八號」
近藤道彦 月並みだけど、感じたこと
津田三朗 「誰も触れてはならぬ」
原口勇希 野戰攻城2020日録―2020年2月14日~8月12日DRYDOCK NO.8 乾船渠八號以後の上演記録
二見彰 コロナ禍の世界で立ち止まらないということ
伊藤裕作 水族館劇場 2020 年春 花園神社 野戰攻城 歌日記 ならず者、われら破落戸<コロ憑き>ならず
千葉大二郎〈硬軟〉 雨傘の骨
ミズカンナ コロナによる自粛要請と監 視社会、それでも公演中止を望まず役者降板しなかった理由
宮崎シュト 2020年4月の矛盾の記録
藤中悦子 そう遠くはない未来に
杉原克彦 SEVEN DAYS WAR ♪を聴きながら
西表カナタ あるべき未来
田邊茂男 沢山考えました
田中哲 経済テロの特効薬
赫十牙 お寒うございます お暑うございます
風兄宇内 乾船渠八號 DRY DOCK No.8 2020 年新宿花園神社 特設野外儛臺
七ツ森左門 動きつづける
松林彩 本当にやったらいけなかったのかなあ
臼井星絢 2020 野戰攻城 乾船渠八號で思っていたこと
石井理加 制作覚え書き
秋浜立 街からひとがいなくなっても
千代次 叛・自粛
村田卓 「延期」「中止」の雪崩れ。最後に花園だけが残った
椎野礼仁 千代に八千代に千代次!
梅山いつき 歩きながら考えたこと― ―身体のわずらわしさとこれからの劇場
毛利嘉孝 新たなパンデミックの時代に
資料・乾船渠八號

■はじめに

この春の野戰攻城「乾船渠八號 DRY DOCK NO.8」公演不能の事態を承けて、水族館劇場としての倫理と責任をずっと考 えつづけて来ました。芝居興行が持つ可能性としての「開き」が逆に災いし、わたくしたちは公演を断念せざるを得ませんでした。

全面中止にいたるまでのあいだ、たくさんの方々から激励はもちろんのことお叱りに近いご忠告もいただきま した。一月からの台本稽古、三重合宿、仮設小屋建設。幾度も引き返す関所を視野に討議しながら、それでも二一名の役者は最後まで劇場とともに在る道を撰びました。

世の中の混乱が、どれほどちいさな役者徒党に圧力となってのしかかろうと、冷静に情況の推移をみつめ、参画役者ひとりひとりの温度差も考慮し、一方的な決定の押し付けは避けたつもりです。途中、地方在住の役者に本隊のほうから合流断念を要請したのは、未成の観客との黙契を果たすという決意性で開幕の継続を強制したくなかったからです。とうぜんのことですが集団内部にも個々の事情があります。みずからの疾患と長く付き合わなければならない者、老齢の肉親とともに暮らす者。否、わたくしたち自身が世間からみれば高齢者集団に映るでしょう。けれども神社側からの強い撤退勧告が出されるまで、興行を自粛することは考えませんでした。中止以降も わたくしたちは神社に居残り、野戰攻城を続けました。同時に個々の環境、考えの違いから公演に臨む態度に正反対の距離が生じたことも事実です。

ふたつの態度を別けたものはなにか。イデオロギーでもなく、現実理解の深度でもないとし たら。わたくしたちはいまだにこの距離を重く受け止め、頭をかかえながら前に進もうと思っています。そのために何を為すべきか。羽鳥書店の協力ではじまったパンフレットはこの百年、誰も経験したことのなかった感染パンデミックに振り回されながら、首都の片隅で野営した藝能集団が感じたことを声として後に残すために編まれました。

いちばん撰んではならない道は、病原菌をめぐる解釈と態度に違いがうまれたとしても、それを規準としないこと。分断を招来する過ちこそ、芝居者として生き続ける意思が遠ざけなければならない敗北であると身に染み込ませること。

ですから本文は、一 枚岩の強固なメッセージでつらぬかれているわけではありません。依頼した書き手全員にお願いしたのは、それぞれの立場で自由な思いを述べて欲しいということだけでした。複数の角度からの検証こそが、未来をきり拓く鍵になると信じて、 ささやかな言葉の花束をお届けします。

■ご案内
ショップページよりお買い求めいただけます。

盜賊たちのるなぱあく

横浜寿町にひと夏かぎりの るなぱあく開幕!

この街をみよ! 時代の波にあらがい、歯をくいしばって生きてきた、俺たちの寿町を!
そして会期中、水族館劇場役者陣は全員で未完成をめざし、廢園をつくりつづける。
つくりつづけることそのものを見世物芝居として観客にひらいてゆく。
──巨大廢園の路地──

ヨコハマトリエンナーレ2017に、「ヨコハマプログラム」の一環として、水族館劇場が芝居公演+巨大廢園「盜賊たちのるなぱあく」をもって参加。芝居は、三年越しの連作「もうひとつの この丗のような夢 寿町最終未完成版」。

アウトオブトリエンナーレ《盜賊たちのるなぱあく》

会期 | 2017年8月3日[木]─ 9月17日[日]

もうひとつの この丗のような夢 ​寿町最終未完成版

公演日|2017年9月1日[金]─ 5日[火]/ 13日[水]─ 17日[日]

会場 寿町総合労働福祉会館 建替え予定地(横浜寿町労働センター跡地)

水族館劇場 ヨコハマトリエンナーレ2017 ヨコハマプログラム特設サイト
http://www.suizokukangekijou-yokohama2017.com/


POSTER

近藤ちはるデザイン もうひとつの この丗のような夢 ​寿町最終未完成版 ポスター

創造都市横浜・インタビュー
「僕らが芝居をやる理由」水族館劇場・桃山邑が語る表現の源

https://yokohama-sozokaiwai.jp/person/16352.html

日本有数の寄せ場といわれる寿町での公演が間もなくスタートする水族館劇場。座付き作者の桃山邑は、日雇い労働をしながら1980年に曲馬舘という演劇運動の流れにある劇団に入り、以降、芝居と建設現場での仕事を続けてきた人物だ。「自前でテント建てるのも芝居」と言い切る桃山が語る、独自の芝居論からは、表現することの根源が見えてくる。実際に水族館劇場の公演を目にする前に、いま一歩、大文字の歴史に押し込められない「敗者の精神史」を試みる彼らの思想に近づいてみたい。


もうひとつの この丗のような夢 ​寿町最終未完成版 前芝居



水族館劇場 ヨコハマトリエンナーレ2017 劇場空撮

撮影編集 中野渡昌平

web DICE骰子の眼 掲載
横浜寿町ど真ん中の空地に廃園が出現!劇団・水族館劇場の巨大テント劇場に行って見た!

http://www.webdice.jp/dice/detail/5472/


FLYER

デザイン:近藤ちはる
デザイン:近藤ちはる

じゃ、ごろつきと呼ぶんだね。ふたたび。

2020年4月「乾船渠八號」の公演の際に配布予定だった機関紙FISHBONEに掲載された桃山邑の原稿「じゃ、ごろつきと呼ぶんだね。ふたたび。」をお届けします。


 今宵は2020野戰攻城「月への砲彈」へようこそ。といつものように書き出してはみたものの、喫緊の社会情勢を鑑みれば、のんびり芝居見物どころではありますまい。それでも水族館劇場の旗のもとにお集まりいただいた皆さま、ほんとうに感謝しております。ありがとう。わたくしたちが公演を取りやめる唯一の可能性がある、神社側からの撤退要請ですが、この原稿を執筆している現在は、まだありません。予断を許されない状況は今後ますます厳しくなっていくでしょう。だからこそわたくしたちは藝能のちからを信じて、自粛をかんがえませんでした。なんとかやらせてあげたいという宮司さまのご厚情にこたえるためにも不眠不休で、はじめに台本ありきの世界を拵えたのです。ご堪能ください。開催にあたり、行政側よりさまざまな条件が付与されました。観客のみなさまにはご不自由をおかけしますが、なにとぞ木戸の指示にしたがってくださいませ。わたくしたちは興業として成立しないこの舞台すら天の配剤ととらえます。いつもの満員、スシ詰め状態を回避できるのですから。すべてはハイデガーのいう放下。人智ではどうにもならないこと。毛利教授の論攷にもあるように、誰ひとり経験したことのない、この事態と真摯に向き合うには、敵対し、殲滅するのではなく共存してゆく方向を探るのが最もゆたかな場所に抜けだす道だと思えるのです。 

 わたくしには十年ほどまえの福島原発暴走の時のことが思い出されます。事故直後、首都圏で暮らすひとびとはみずからの生活基盤がどれほど地方によりかかったものか、そしてそれがいかほど危ういか身にしみたはずです。震災直後、オールジャパンという言葉がもてはやされ、都市生活者たちはエネルギー使用の見直しを声たかだかに唱えました。無駄な享楽は不要。もっとつつましやかな時代に戻らなければ。東京電力の無責任姿勢とともに日常が戻ると、ひとびとは再び利便性を保証してくれる立場を撰んだと思います。わたくし自身も例にもれません。咳をしても噂が走る人間関係のしがらみに縛られない都会の自由な暮らしを望んで鄙を離れたのですから。その自由はなにかと引き換えである覚悟だけはしていたつもりです。そのことのツケを他人の不幸に押し付け、知らぬ存ぜぬの頬被りができなかっただけです。

 原発事故の反省は不発に終わったけれど、にんげんの悲しみや苦しみが、いま持たざる者へ降り下ろされる鉄槌への抵抗の原基となって世直しがおこなわなければ、ほんとうのまことの道をみつけたことにはならないはずです。

 この数年のあいだに、たいせつなひとびとを何人かなくしました。わたくし自身も矢尽き鎧破れた落武者のような状態ですが、弔いのなかから浚渫される思い出を遅ればせながら書きとめて置きたいと思います。

 昨年、わたくしは翠羅臼さんの呼びかけに呼応するように、それまで縁のなかった沖縄の地に降り立ちました。その契機は愛知県岡崎市に拠点をもっていた劇団白髪小僧のリーダー、なかせいしろうさんの不慮の死に端を発します。なかさんはわたくしにとって、同じ日雇い労働者として、劇団のリーダーとして、常に意識していた存在でした。最初の出会いはご多分に漏れずうまくいきませんでした。白髪小僧東京遠征のときわたくしが所属していた劇団の稽古場を仮の宿に提供したものの、つまらぬ誤解から公演後のうちあげの席で大立ち回り。互いにしこりが残り、仲直りのきっかけは数年後。白髪小僧を迎え入れた当時の劇団は消滅し、わたくしはあたらしい仲間とともに水族館劇場をたちあげました。大八車をころがし、筑豊地帯を巡っていたときでした。遠賀川のほとりに粗末な仮の宿をとったへっぽこ役者三人組は河原に巨大な天幕劇場を発見したのです。近づいてみるとなかさんが退屈そうに木戸で午睡のまっさいちゅう。いがみあった過去の確執も遠賀川の水に流したのでした。つぎはわたくしが甘えました。東京に無事帰還した何も持たないちいさな劇団は天幕劇場を拵え、千代次とならぶ女優に名花、阿木暦さんを指名したのです。発足当時役者の足りなかった弱小劇団の座長は雪吹雪くなか、薔薇の花束をもって岡崎にむかったことを鮮明に覚えています。躊躇する阿木さんに、なかさんは「助けてやれよ」と後押ししてくれました。次はわたくしがなかさんのたくらみに嵌められました。白髪小僧最後の旅芝居となった「RAISE」の韓国公演に別の芝居を企画、台本作者にわたくしを指名してきたのです。わたくしなどより彼を慕っていた芝居者がいたので一度はお断りしたのですが「おまえじゃなきゃ駄目」ときつく言い含められました。騙されたようなものですが、だまされて良かったと思います。芝居はいまだ硝煙(催涙弾の水平打ち)の残る解放記念日(八月十五日)に玉音放送を流すという過激なものでした。なんのために韓国に来てこんな芝居を上演するのか。韓国側スタッフからも、仲間うちからもたくさんの疑問をぶつけられました。わたくしにはひとつの想いがありました。この切通しにも似た迷路をくぐらなければ、どんなつもりで社会の外に打ち捨てられたひとびとの物語を書けるのか。そのことを、なかせいしろうさんは理解してくれていたように思います。

 筑豊炭坑のルポルタージュ作家、上野英信さんの言葉「坑夫自身が坑夫の言葉で文学をきりひらけ」。なかさんにしみじみ諭されたことがあります。「寄せ場に関わる芝居者はいるけれど、職人として日雇いしながらものを書いているのは結局俺とおまえだけだなぁ」。型破りの芸風とは全く違う、生真面目なプロレタリア文学を信じている風情に、襟をただしたこともあります。井上光晴、野間宏、中野重治。その領域だけではありません。天幕劇場のあらくれは萩原朔太郎を愛するデカダンの詩人でもあったのです。晩年は絵描きとして気侭にカンバスにむかい、芝居は封じ込めていました。でもどんなことをしていても、彼はわたくしにとって、端倪すべからざる芝居者でした。持って生まれた資質と違う生を歩いても、ただまっすぐに、来るべき世界を看取する、すぐれた先達だったのです。いまでも阿木さんに託した彼の最高の台詞を諳んじられます。「お見世できるものは何もありません」。

 なかさんに誘われた韓国公演のヒロインはふたりいました。ひとりはわたくしのなかでいまだに女子高生にしかみえない(因縁ある東京遠征のときは正真正銘女子高生だった)浪野千鳥さん。浪野さんはずいぶん後にも、さすらい姉妹の千代次の相方として最高の演戯をみせてくれました。もうひとりは今回わたくしのたっての願いで十数年ぶりに役者復帰してもらうミズカンナさん。白髪小僧、劇団どくんごとの混成旅団を組み、韓国にむかいましたが余りいい思いでの無いなかで、彼女と南大門をさまよった記憶がよみがえります。わたくしは(おそらく)なかせいしろうに指導されたであろう、彼女の立ち姿が大好きでした。その出自から別の天幕劇団にいきたかったみたいですが、白髪小僧の女優でいてくれてありがとう、と掛け値無しで思っています。もうひとり、いまは袂を分かちましたが水族館劇場黄金世代のひとりだった杉浦康博くんもなかさんの教え子のひとりです。彼の経歴に関してはわたくしの配慮のなさからなかさんや阿木さんに辛いおもいをさせてしまい、お叱りをいただいた際、バラシの最中だったのですが岡崎に謝罪しに出向きました。門前払いも覚悟していましたが、ふたりともこころよく水に流してくれました。

 さて、訃報を受けて、なかさんの葬儀に参列した翠さんは、生前のいろんな思い出を越えて、沖縄での芝居に転進しようと決意したに違いありません。半年くらい違うだけの同じ時期にこの世を去った、仲の良かった火田詮子さんと違って、なかせいしろうさんは無名のままこの世を去りました。そのことの意味はわたくしにとって、このうえなく重い。いってみれば、世界との不和。認知されないという栄光と苦悩。彼の芝居はそのはざまで、一瞬の閃光を放っていたと信じています。わたくしにとって、それはかけがえのない存在。今後どんなに水族館劇場が観客の拍手につつまれても忘れてはならない覚書。

 わたくしは既に還暦を越え、棺桶に片足いれた亡霊のようなものですが、それでも失いたくない矜恃があります。なかさんをはじめ、曲馬舘を率いていた翠さんや桜井大造さん。大阪の犯罪友の会の武田一度さん。多くの先輩に叱咤されながら野外芝居の荊道を歩いてきました。わたくしより年若い、あらたな感性をもつ若者とも出会ってきました。それでも。先行世代を乗り越えながら、後続世代に乗り越えられることは断固拒否したいと思っています。過去の者になりたくないから、ただいま現在の芝居のアクチュアリティーを身につけるための折角は惜しまない。今宵の芝居はそんな無鉄砲なわたくしに共感してくれた、年若い友人、乾緑郎さんによる夢の旅です。いつも勝手は違うかもしれませんが、どうぞごゆるりと。

(ももやま ゆう/水族館劇場座長)


2020年4月の水族館劇場の本公演「乾船渠八號」は、花園神社側からの要請により中止となりました。