じゃ、ごろつきと呼ぶんだね。ふたたび。


2020年4月「乾船渠八號」の公演の際に配布予定だった機関紙FISHBONEに掲載された桃山邑の原稿「じゃ、ごろつきと呼ぶんだね。ふたたび。」をお届けします。


 今宵は2020野戰攻城「月への砲彈」へようこそ。といつものように書き出してはみたものの、喫緊の社会情勢を鑑みれば、のんびり芝居見物どころではありますまい。それでも水族館劇場の旗のもとにお集まりいただいた皆さま、ほんとうに感謝しております。ありがとう。わたくしたちが公演を取りやめる唯一の可能性がある、神社側からの撤退要請ですが、この原稿を執筆している現在は、まだありません。予断を許されない状況は今後ますます厳しくなっていくでしょう。だからこそわたくしたちは藝能のちからを信じて、自粛をかんがえませんでした。なんとかやらせてあげたいという宮司さまのご厚情にこたえるためにも不眠不休で、はじめに台本ありきの世界を拵えたのです。ご堪能ください。開催にあたり、行政側よりさまざまな条件が付与されました。観客のみなさまにはご不自由をおかけしますが、なにとぞ木戸の指示にしたがってくださいませ。わたくしたちは興業として成立しないこの舞台すら天の配剤ととらえます。いつもの満員、スシ詰め状態を回避できるのですから。すべてはハイデガーのいう放下。人智ではどうにもならないこと。毛利教授の論攷にもあるように、誰ひとり経験したことのない、この事態と真摯に向き合うには、敵対し、殲滅するのではなく共存してゆく方向を探るのが最もゆたかな場所に抜けだす道だと思えるのです。 

 わたくしには十年ほどまえの福島原発暴走の時のことが思い出されます。事故直後、首都圏で暮らすひとびとはみずからの生活基盤がどれほど地方によりかかったものか、そしてそれがいかほど危ういか身にしみたはずです。震災直後、オールジャパンという言葉がもてはやされ、都市生活者たちはエネルギー使用の見直しを声たかだかに唱えました。無駄な享楽は不要。もっとつつましやかな時代に戻らなければ。東京電力の無責任姿勢とともに日常が戻ると、ひとびとは再び利便性を保証してくれる立場を撰んだと思います。わたくし自身も例にもれません。咳をしても噂が走る人間関係のしがらみに縛られない都会の自由な暮らしを望んで鄙を離れたのですから。その自由はなにかと引き換えである覚悟だけはしていたつもりです。そのことのツケを他人の不幸に押し付け、知らぬ存ぜぬの頬被りができなかっただけです。

 原発事故の反省は不発に終わったけれど、にんげんの悲しみや苦しみが、いま持たざる者へ降り下ろされる鉄槌への抵抗の原基となって世直しがおこなわなければ、ほんとうのまことの道をみつけたことにはならないはずです。

 この数年のあいだに、たいせつなひとびとを何人かなくしました。わたくし自身も矢尽き鎧破れた落武者のような状態ですが、弔いのなかから浚渫される思い出を遅ればせながら書きとめて置きたいと思います。

 昨年、わたくしは翠羅臼さんの呼びかけに呼応するように、それまで縁のなかった沖縄の地に降り立ちました。その契機は愛知県岡崎市に拠点をもっていた劇団白髪小僧のリーダー、なかせいしろうさんの不慮の死に端を発します。なかさんはわたくしにとって、同じ日雇い労働者として、劇団のリーダーとして、常に意識していた存在でした。最初の出会いはご多分に漏れずうまくいきませんでした。白髪小僧東京遠征のときわたくしが所属していた劇団の稽古場を仮の宿に提供したものの、つまらぬ誤解から公演後のうちあげの席で大立ち回り。互いにしこりが残り、仲直りのきっかけは数年後。白髪小僧を迎え入れた当時の劇団は消滅し、わたくしはあたらしい仲間とともに水族館劇場をたちあげました。大八車をころがし、筑豊地帯を巡っていたときでした。遠賀川のほとりに粗末な仮の宿をとったへっぽこ役者三人組は河原に巨大な天幕劇場を発見したのです。近づいてみるとなかさんが退屈そうに木戸で午睡のまっさいちゅう。いがみあった過去の確執も遠賀川の水に流したのでした。つぎはわたくしが甘えました。東京に無事帰還した何も持たないちいさな劇団は天幕劇場を拵え、千代次とならぶ女優に名花、阿木暦さんを指名したのです。発足当時役者の足りなかった弱小劇団の座長は雪吹雪くなか、薔薇の花束をもって岡崎にむかったことを鮮明に覚えています。躊躇する阿木さんに、なかさんは「助けてやれよ」と後押ししてくれました。次はわたくしがなかさんのたくらみに嵌められました。白髪小僧最後の旅芝居となった「RAISE」の韓国公演に別の芝居を企画、台本作者にわたくしを指名してきたのです。わたくしなどより彼を慕っていた芝居者がいたので一度はお断りしたのですが「おまえじゃなきゃ駄目」ときつく言い含められました。騙されたようなものですが、だまされて良かったと思います。芝居はいまだ硝煙(催涙弾の水平打ち)の残る解放記念日(八月十五日)に玉音放送を流すという過激なものでした。なんのために韓国に来てこんな芝居を上演するのか。韓国側スタッフからも、仲間うちからもたくさんの疑問をぶつけられました。わたくしにはひとつの想いがありました。この切通しにも似た迷路をくぐらなければ、どんなつもりで社会の外に打ち捨てられたひとびとの物語を書けるのか。そのことを、なかせいしろうさんは理解してくれていたように思います。

 筑豊炭坑のルポルタージュ作家、上野英信さんの言葉「坑夫自身が坑夫の言葉で文学をきりひらけ」。なかさんにしみじみ諭されたことがあります。「寄せ場に関わる芝居者はいるけれど、職人として日雇いしながらものを書いているのは結局俺とおまえだけだなぁ」。型破りの芸風とは全く違う、生真面目なプロレタリア文学を信じている風情に、襟をただしたこともあります。井上光晴、野間宏、中野重治。その領域だけではありません。天幕劇場のあらくれは萩原朔太郎を愛するデカダンの詩人でもあったのです。晩年は絵描きとして気侭にカンバスにむかい、芝居は封じ込めていました。でもどんなことをしていても、彼はわたくしにとって、端倪すべからざる芝居者でした。持って生まれた資質と違う生を歩いても、ただまっすぐに、来るべき世界を看取する、すぐれた先達だったのです。いまでも阿木さんに託した彼の最高の台詞を諳んじられます。「お見世できるものは何もありません」。

 なかさんに誘われた韓国公演のヒロインはふたりいました。ひとりはわたくしのなかでいまだに女子高生にしかみえない(因縁ある東京遠征のときは正真正銘女子高生だった)浪野千鳥さん。浪野さんはずいぶん後にも、さすらい姉妹の千代次の相方として最高の演戯をみせてくれました。もうひとりは今回わたくしのたっての願いで十数年ぶりに役者復帰してもらうミズカンナさん。白髪小僧、劇団どくんごとの混成旅団を組み、韓国にむかいましたが余りいい思いでの無いなかで、彼女と南大門をさまよった記憶がよみがえります。わたくしは(おそらく)なかせいしろうに指導されたであろう、彼女の立ち姿が大好きでした。その出自から別の天幕劇団にいきたかったみたいですが、白髪小僧の女優でいてくれてありがとう、と掛け値無しで思っています。もうひとり、いまは袂を分かちましたが水族館劇場黄金世代のひとりだった杉浦康博くんもなかさんの教え子のひとりです。彼の経歴に関してはわたくしの配慮のなさからなかさんや阿木さんに辛いおもいをさせてしまい、お叱りをいただいた際、バラシの最中だったのですが岡崎に謝罪しに出向きました。門前払いも覚悟していましたが、ふたりともこころよく水に流してくれました。

 さて、訃報を受けて、なかさんの葬儀に参列した翠さんは、生前のいろんな思い出を越えて、沖縄での芝居に転進しようと決意したに違いありません。半年くらい違うだけの同じ時期にこの世を去った、仲の良かった火田詮子さんと違って、なかせいしろうさんは無名のままこの世を去りました。そのことの意味はわたくしにとって、このうえなく重い。いってみれば、世界との不和。認知されないという栄光と苦悩。彼の芝居はそのはざまで、一瞬の閃光を放っていたと信じています。わたくしにとって、それはかけがえのない存在。今後どんなに水族館劇場が観客の拍手につつまれても忘れてはならない覚書。

 わたくしは既に還暦を越え、棺桶に片足いれた亡霊のようなものですが、それでも失いたくない矜恃があります。なかさんをはじめ、曲馬舘を率いていた翠さんや桜井大造さん。大阪の犯罪友の会の武田一度さん。多くの先輩に叱咤されながら野外芝居の荊道を歩いてきました。わたくしより年若い、あらたな感性をもつ若者とも出会ってきました。それでも。先行世代を乗り越えながら、後続世代に乗り越えられることは断固拒否したいと思っています。過去の者になりたくないから、ただいま現在の芝居のアクチュアリティーを身につけるための折角は惜しまない。今宵の芝居はそんな無鉄砲なわたくしに共感してくれた、年若い友人、乾緑郎さんによる夢の旅です。いつも勝手は違うかもしれませんが、どうぞごゆるりと。

(ももやま ゆう/水族館劇場座長)


2020年4月の水族館劇場の本公演「乾船渠八號」は、花園神社側からの要請により中止となりました。