2021年12月4日(土)〜25日(日)にeitoeikoにて、岡本光博と千葉大二郎による展覧会「水族館劇場の向こうがわ」が開催されました。
水族館劇場の活動を現代美術の側面からとらえ、芸術と社会運動について考察し、岡本は劇団との関わりのある「モレシャン」と「ドザえもん」シリーズの立体作品を、千葉は「水族館劇画」シリーズを発表しました。
photo: Daisaku OOZU
2021年師走、神楽坂eitoeikoでひらかれた「水族館劇場の向こうがわ」に寄稿した桃山の現代美術の原稿です。
2022年の野戰攻城のfish-boneにはこの論考を膨らませたものを掲載予定でしたが、ニコラ・ブリオーの邦訳がようやく出版されたり(うなずく点も多い)諸事情がからんで全く別のテーマになってしまいました。中途半端ではありますが、来場者しか眼に触れることがなかったので、ここに再録いたします。
※「水族館劇場の向こうがわ」図録はこの寄稿のほか、岡本光博「ドザえもん」枯山水バージョン写真と、千葉大二郎による水族館劇画のリソグラフ全16葉を収録。木戸にて販売いたします。
敵対と関係性の芝居の現場から現代美術をかんがえる
水族館劇場 桃山邑
1.いまから六年前。劇団分裂をともなうお家騒動の後、野戰攻城再生の前哨戦として、ぼくは「さすらい姉妹」の年末年始寄せ場巡演の台本を書いていた。「ぢべたすれすればったもん」のタイトルを持つその芝居は当時の役者たちの、不安と矜恃が綯い交ぜになった心境を、そのまま反映させようと試みた背水の舞台だった。偽物であることに居残り、模倣を突き抜けることにあたらしい可能性をみはるかすブツを現代美術に発見し、物語に組み入れようと折角した。ルイ・ヴィトンからの抗議を受けて美術館から撤去された岡本光博の「バッタもん」だ。その作品のバッタもんを登場させるアクロバット。本物の偽物の偽物だから著作権など派生するはずもないだろうと気楽に構えていたのだが演出の毛利嘉孝から連絡すべきと諌められ、美術家に快諾して貰った縁が、二年後のヨコハマトリエンナーレでの巨大作品「DADAモレ」と寿町の子どもたちが喜んだ「ドザえもん」展示につながった。そのとき美術家の御就きとしておっとり刀であらわれたのがeitoeikoのオーナー、癸生川栄である。役者徒党らしい水族館劇場の勾引かし術に乗ってくれ、以降、ご子息ともども、役者として舞台を踏んでくれた。トリエンナーレは美術展だったので(なぜ水族館に白羽の矢がたったかは謎だが)ぼくは当時、アートフェスティバルという名目で展開されていた、グローバル資本主義と背中合わせの地域振興批判を明確にしていた藤田直哉(前衛のゾンビたち)を呼び、リクリット・ティラヴァニャのパロディにしか思えない会田誠の芸術公民館(寿町の展示会場に厳禁の酒を持ち込み、日雇いの街の酔いどれたちたちと呑みかわしながら、だらだらとお喋りする)を芝居と並行して開催した。アウトオブトリエンナーレと名付けられたイベントは当時ぼくたちのやんちゃな振舞いを見守ってくれた横浜美術館長(現新国立美術館長)逢坂恵理子の期待に応えたはずと自負している。「やっちゃ駄目という約束(打上花火、酒持込み、火吹き、芝居後の宴会)を全部実現された」と館長は苦笑いしていたが、そのことで誰かに迷惑をかけたことは露ほどもないはずだ。云わば敵対性のはりつめた街(役者徒党が野天に準備を開始したとき、呑んだくれたちは糞尿のごみを投げつけた)に、ぼくたちはあなたがたと同じ側に立つ河原者であることをていねいに説明しながら、やわらかい卑近の美を持ち込み、それを野宿者たちも含めたベガーズバンケットに昇華できたとのではと考えている。
2.卑近の美とは何か。「私が初期肉筆浮世絵に心酔し出したのはいつの頃からであったか、七八年も前になろうかと思われる。無論最初は只漫然と岩佐又兵衛の筆としてそれ等を見ていたのであるが、私はそれ等の絵にある、へんに生々しい男女の顔、一種古拙でしかも深く現実感をとらえたミスチックな姿態、気味悪い程生きものの感じを持った、東洋人独特のぬるりとした顔の描写、そういう、所謂私のでろりとした美しさの味、それと同時に、私は又かなり前から、美術上の審美的境地に「事象」の美という一境のあることを覚って来ていた」ー初期肉筆浮世絵 岸田劉生
近代が胎動し、完成に向かっていた時代に生きた天才画家はセザンヌの影響下に出立し、次第に東洋的な美に傾倒してゆく。
歌舞伎や肉筆浮世絵を「でろり」という造語で捉え、又兵衛の、血みどろの記憶にささえられた美学を発見した劉生の眼の神殿に現出するものは、ぼくたちが藝能と呼ぶ放下の境地と驚くほど似通っている。西欧文化に尻尾をふってついていった明治近代が葬り去ろうとした前近代の美。「でろり」という、見事な語感が連想させるのは胆汁質の、毒性をおびた危険な美しさである。とおり一遍の理解を撥ねつけて深いまなざしを持つものだけが感じ取れる享楽。唐突な比喩だが、アメリカのブルースマン、ライトニン・ホプキンスのどす黒い佇まいに共通項を見いだした音楽評論家もいたことを思いだす。ぼくにとっては愛してやまないシンガー、0.V.ライトの、咽のなかでコブシをびちゃびちゃと噛み砕き、聴くものの耳にでろりとした味わいを届ける唱法を想起させる。さすらい姉妹は長いことこのサザンソウルの至宝の名曲「I’m Going Home」を客送りに流してきた。そして此処、eitoeikoで幕を切って落とす新作「のざらし姫」では豊国祭礼図屏風に描かれた桃山時代の名残りを宿す出雲の阿国をテーマに据えた。ご承知のように豊国祭礼図屏風はいくつも現存するが、豊国神社本、徳川美術館本の二点が近世風俗図の傑作として名高い。そのうち、徳川美術館に収蔵されたものは伝・岩佐又兵衛筆と称呼されているものだ。これらの断片的な事象を繋ぐ横糸は藝能というキイワードである。現代河原者を名乗るぼくは、芝居を〈演劇〉という小さな檻に閉じこめず、開かれた場=舞台と客席の境界をとり払った、相互のネットワークとして捉え、精神の賦活をもくろむ現象として観客にさしだしてきた。その点ではニコラ・ブリオーがとなえた〈関係性の美学〉と近いかもしれない。
3.ジャック・ランシエールはブリオーが評価した現代美術のあたらしい(もう既に四半世紀の刻が経っているが)方向性に否をとなえ、さらにクレア・ビショップが美術理論誌オクトーバーで関係性の美学を批判する。「ブリオーは、同時代の作品を前の世代から何とか引き離そうとしている。彼の考えているとおり、両者の主な違いは社会の変革に対する態度の移行にある。つまり、今日のアーティストが追い求めているのは、〈ユートピア的な〉アジェンダの代わりに、いまここにおける一時的な解決策を見つけだすことだけなのである。今日のアーティストは自分たちの環境を変革する代わりに、ただ〈よりよい仕方で世界に住まう方法を学んで〉いる。こうした芸術は、未来のユートピアを待ち望む代わりに、現在において機能するもろもろの〈ミクロトピア〉を作り上げる。ブリオーは、この新しい態度をひとつの文章によって鮮やかに要約している。〈より幸福な明日に賭けるより、現在の隣人たちとのありうべき関係性を発明することの方が、より急務であるように思われる〉このミクロトピア的な気風こそ、ブリオーが関係性の美学の中核をなす政治的な意義としてみとめるもの」とみなして反論する。エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフ『ポスト・マルクス主義と政治―根源的民主主義のために』を援用しながら、関係性の美学の政治性を批判的な照明のもとにひきずりだす。ここで問われる民主主義のための最初の概念は「敵対」である。他者の多様性を民主的に尊重するとは、あらゆる対立が解消された世界のことではなく、維持されつづけることではないかと論を結ぶ。敵対が存在しなければ権威によって強制された「合意」ばかりがまき散らされ、本来の民主的な社会と相容れない。このような脆弱な基盤のうえに立ち上げられた現実、とりわけ日本の地域アートフェスティバルに違和を感じるのは藤田や会田だけではないはずだ。岡本の作品もまたいたるところで物議をかもしだしてきた。だがその積み重ねこそ正常な事態ではないのか。問題を顕在化することで白日のもとに晒される欺瞞もあるからだ。リレーショナル・アートの、若い担い手たちが芸術(虚構)を政治(現実)にスライドさせたとき、思っても見ない事態(それこそ政治性)にまきこまれることを覚悟しなければ統治権力に吸収されるだけだろう。ぼくはそもそも芸術と政治の二項対立なんてかんがえていない。芸術が虚構で政治が現実とも断定しない。あらゆる事象は蚕食しあい、無限の宇宙にたゆとうている。強いて云うなら、政治こそ藝能(芸術という言葉はキライなので)に奉仕するのでなくては世情は豊かに穣りの秋《とき》を迎えることができない。Hassuism千葉大二郎の魅力は挑発性にある。ことによっては観るものを不快にさせ、意味をさがしあぐねる迷路が用意されている。でもそれこそが関係性の美学を越えてゆく芸術の出発点になるのではないか。かつて千葉は水族館の活動を劇団に擬態した百姓一揆であると喝破した。そのまなざしの向こうに来るべき未来の美を現出してほしい。
4.最後に今回の芝居と関連する問題にたちかえる。歴史学者の黒田日出男は前出の豊国祭礼図を読み解くうえで重要な指摘をしている。すなわち史料としての図像に残された痕跡をそのまま事実として認識するのではなく作者の虚構(この場合、岩佐又兵衛がどのような意図をもって祭礼図を再構成したのか、喧嘩をする跋折羅者の朱鞘に生き過ぎたりやの文字を写して何らかの意味を隠した)を見破らなければその絵を見たことにならないと。秘匿された暗喩がきわめて直裁に政治に絡んでくるからこそ作者は想いを「別の仕方」で表現した。虚実皮膜のあわいにこそ真実があると説いたのは「でろり」の美をさらに深めた後世の近松門左衛門である。この国でも四百年前から虚構と現実は血糊のごとく混じりあっていた。芝居現場の芸人からみえた現代美術の可能性をメモして残す所以である。
※文中個人名の敬称を略させていただきました。また、いろいろ生煮えな感が否めないのは承知のうえでこのエッセイを仕上げたので来年の春までに問題点を整理してあらためて同じテーマでかんがえたことを発表したいと思います。文中、明記したもの以外、参照したのは以下のとおりです。
『資本主義が終わるまで』 丹羽良徳 Art-Phil 『豊国祭礼図を読む』 黒田日出男 角川選書
『開放された観客』 ジャック・ランシエール 法政大学出版局
「ブリオー×ランシエール論争を読む」 星野太 コンテンポラリー・アート・セオリー所収 イオスアートブックス
「敵対と関係性の美学」クレア・ビショップ 表象05所収 月曜社
eitoeiko
東京都新宿区矢来町32-2
www.eitoeiko.com
2022.4.9〜4.30 展覧会タイトル:桜を見る会
開廊時間:火~土 12時~19時
出展作家:一色ちか子、岡本光博、木村了子、坂本佳子、嶋田美子、中島りか